TRUMBLE |
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逸る気持ちだけで動く身体が勝手に小走りにならないように、 それだけに気を付けながら、目的の人物に近付く。 小造りな身体で姿勢良く立つ人の肩までで切られた金髪の色味は八ヶ月前の記憶の中のものと変わらない。 「…よぉ、青八木サン」 柄にも無く緊張したような気分が足元の砂を思いのほかに大きく鳴らす。 人の気配には既に気付いて振り向きかけていたその 『先輩』 に、声を掛けた。 「銅橋、久し振り……入学おめでとう」 顔を上げた青八木さんは、微笑んで俺を祝ってくれた。 黄色やオレンジ色の花がたくさん植えられ咲いている。 ここは今月から俺が通う…そして、俺が呼び出したこの先輩が通っている明早大学の図書館前の花壇だ。 花の種類なんざは判んねえが、春をそのまま現実に映し込んだみたいなその光景を綺麗だと思うような感想はこの俺にも在る。 特に、黄色の花はいい。 鮮やかな色味は隣に居る人の色素を抜いた髪色のようで、茎の緑と併せて見れば……とにかく、いい色だと思う。 つい横目で見るとゆっくり顔を上げた人と目が合い、思わず視線を外してしまった。 「あ、今日は急にすんませんした、呼びつけたり」 「いや、構わない……でも、どうしたんだ」 ストレートに訊かれ、言葉に詰まる。 特別仲が良いわけでも無い、母校も学年も違う、顔見知り程度の後輩に用も無く呼び出される違和感はやっぱり気になるものなんだろう。 「……なんとなく、す」 「そうか、まぁ……取り敢えず座るか」 そんな言葉で納得したのかしてないのか、青八木さんは短く返すと後方を見返りすぐ近くに設置されているベンチを指した。 どうした、って、どうもしてない。 ただ、会ってみたかっただけだ。 ――この一年間、俺は青八木さんに 『恋』 をしていた。 出会ったのは、一昨年のインターハイ。 俺はこの人とスプリントラインを争った。 …他に目障りな奴も居たが、まぁ、どうでもいい。 最初はちっこくて前髪が長くて、チャラチャラした奴が居るもんだと思ってたが、レース中のこの人は化け物だった。 ふくらむ引き、変形し捕食者から逃げる草食動物の走り、脱落した仲間を救出に残る無謀とも思える行動。 逃げ屋としては目を引くものも在ったがチームの中ではアシストをしている事が多く、戦力としては正直言や大した事も無かった。 ただ、多少面白かった。 インターハイには他にも目に留まる程度に面白い奴が何人も居た。 その中の一人として青八木一の名は俺の記憶の端に残る事になる…が、それは本当に端の、奥の方だった。 その次に会ったのは秋だった。 群馬で在ったロードレースだ。 ハコガクから出た俺以外の選手は真波に新開と言う食わせ者の詰め合わせみたいな面子だったが、それもどうでもいい。 そのレースに、千葉総北の選手も来ていた。 部活の引退前か後の時期だったらしい青八木さんは選手では無くサポートとしてその中にひっそりと居たようだが、特に注目していたわけでもねえから途中までは気付きもしなかった。 そのレース後、俺に負けてうるさく喚くオレンジアタマに絡まれていたら、そこにやって来たのが青八木さんだった。 …いや、青八木さんだけじゃなく、面白半分の真波と新開も、サポートとして来ていた総北の元キャプテンまでもがやって来た。 ゴタゴタと大人数になった中で後輩の耳を引っ張る青八木さんに言葉少なに謝られていたら、何故か、そこでうちの真波にまで絡まれた。 「ね、バシくんも鏑木くんや青八木さんと連絡先交換したら?」 「…………は?」 何やら総北の元キャプテンで在る手嶋さんを気に入っていたらしい真波が、その手嶋さんに連絡先を訊いたとか…そう言う流れだったらしい。 前山神の教えを気紛れに守る真波の気紛れだった。 「スプリンター同士だし、インハイの時も話してたでしょ」 「オレはスプリンターじゃないんですけど!」 悪気なんて一欠片も存在しないような澄んだ笑顔で続ける真波の後ろにはその真波の押しに負けたらしい総北元キャプテンが居て…目が合ったと思ったら手に持ったスマホを軽く挙げて苦笑いを送られた。 …実際に悪気は無いんだろうが、タチは悪い。 その対象があのバカだけなら歯牙にも掛けねえ、誰がンな事するかで終わる。 だが、青八木さんは…本人の走りとは違い比較的常識的な、ひとつだけとは言え目上の人間だった。 よく知りもしない他校の上級生に 「誰がンな事するか」 は、失礼なんじゃないだろうか。 ふと過った考えに言葉を失って比較的近くに居た金髪をつい見下ろすと、今度は当の青八木さんと目が合う。 そうして 「…するか?」 と訊かれてしまったら、流れとしても場の雰囲気としてもスマホを出すしか無かった。 ――そうだった、これで俺は青八木さんの連絡先を入手出来たんだ。 今日、この人を呼び出せたのも、結果的には真波のお陰か。 なんか癪だがどうでもよくは無かった。 「あはは、じゃあ鏑木くん、バシくんに毎日電話しちゃってね」 「やです。 あ、登録名ブタにしよ」 あっちも他校の上級生で新しい山神として名も馳せている真波の言う事は断れなかったのか、少し言いくるめられただけでオレンジアタマは素直に携帯を出して来た。 しかも、真波相手には一応程度だが敬語を使っている。 …なんで俺にはああなんだ。 俺も 『他校の上級生』 だろうが。 「顔文字も入れたら? 鼻が0(ゼロ)のやつ… 『ブタ』 変換で出ない?」 「うわ、ほんとだ。 なんだこれ」 「これがバシくん? 可愛いけどもっと野生っぽくて猪に近いの無いの? ユート作ってあげなよ」 「無茶振りしますね」 真波さんと一緒に居るとAA職人になっちゃう、とわけのわからねえ発言をする新開はオレンジの携帯に何やら打ち込んでいた。 そして程無くして、同時に噴き出す真波とオレンジ。 …なんか無性に腹が立つな、この組み合わせ。 「あ、 『群馬で再会♪ゥチらズッ友』 みたいなグループ作りますんで皆さんどうぞ」 「おいクソグループ魔新開ブロックすんぞ」 「ちなみにブロックされてもグループ招待は可能なんですよ?」 「え、マジで?」 「招待された側に通知も行くから 『ごめんブロック解除して』 みたいなグループ作って嫌がらせにも使えるよ」 「何の情報だよ」 そんなガヤガヤした流れの中で、青八木さんは殆ど喋る事は無かった。 帰りのバスの中で寝始めて凭れ掛かって来るマナミを押し返しながら、ふと、あの人は走らなかったな、と思い出したが、そのまま俺も寝て思考は寸断された。 飯を喰ったら青八木さんの事も連絡先一覧に増えた二件の事もすっかり忘れたが、その日はすぐにその存在を思い出す事になる。 寮の自室に帰った瞬間、スマホの通知バイブが鳴ったからだ。 [夏も今日も不躾な奴で悪かった] [鏑木を、これからも宜しく] 青八木さんだった。 言い口は堅いがあんなのを宜しくなんて…本来なら無茶振りにも程が在る。 そもそもなんだこれ、保護者か。 保護者なのか。 そうじゃなきゃ選挙カーだ。 俺や自分の事には触れない内容がヘンでつい返信をしてから、箱根学園の勝ちに触れないのはあの人が総北の人間だからで…今日の敗北を悔しく思っているんだと気付く。 あの無口で…こんな堅っ苦しい事しか言えない人でも、仲間の敗北が悔しいわけだ。 で、その悔しさを隠してわざわざ送る内容が、バカをよろしく。 保護者か。 青八木さんの返事は短いが早く、何かのプログラムに話し掛けているようだった。 寝るまでの暇潰しに思い付いた質問をして、文字だけで話した。 進学するのか、ロードは続けるのか、レースは……殆どはロードの事だった。 『あんな奴』 の事も、サービス程度に一応は訊いてやった。 次に会ったのは春。 受験を追えた青八木さんが湘南のクリテリウムに個人参加した時に、俺も一般で参加した。 都道府県は跨がないから同じ学校の奴らも誰かしら来るかと思ったのに、その日は真波も新開も来なかったし、青八木さんも一人での参加だった。 あの日寝るまでの暇潰しの筈だったメッセージのやり取りは、翌朝に前日最後に来たメッセージに既読を付けてそれにその夜また返信をした事で、その日限りで終わる事は無かった。 そして、頻度こそ減っていたが、その後も何故か続いていた。 俺とあのバカのレースでの戦績 青八木さんの志望校が泉田さんの志望校と同じだった事、そして俺の志望校も同じだった事 先輩方の受験戦争からの勝利を間近に見て、そう言やあの人はどうなっただろう、と気になった事 本当に作られた群馬で再会グループトークがたまに動く事 (新開とオレンジがよく話していて、それに手嶋さんが反応すると青八木さんも反応する) そんな内容で断続的にやり取りを続けて多少の接点と対話を以て本の少しだけ身近になった俺達は、自然とクリテリウム後も近くに居て、食事もテイクアウトを持って公園で一緒に食った。 静かな場所で青八木さんを見たのは初めてだったかも知れない。 静かな場所で見るその人は、場所よりも静かな人だった。 俺だってそんなに喋る事がねえから、沈黙の時間は長い。 手持ち無沙汰に青八木さんを眺めてる時間も長かった。 全てが小振りな造りはハコガクにはあまり居ない体型だが総北には割と居たな、とか、よく食うな、とか、いや量よりもスピードが尋常じゃねえしすげえ噛んでる、とか、どうでもいい事を考えながら。 静寂が続く事も多かった日だったが、居心地は悪くなかった。 またいつかレースででも会えるといい、そう思った。 それから一週間後、俺は罹患していた。 ……青八木さんが、頭から離れねえ。 起きた瞬間、飯の時間、朝練中、授業中、飯、部活、飯、風呂、寝る間際、 気を抜いた瞬間に、青八木さんが頭の中に浮かぶ。 視線が交わると片方しか見えないデカい眸で真っ直ぐ射貫くように顔を此方に向ける様だとか、細い腕と太い脚とか、長めで真っ直ぐな金髪とか、開けた襟から見えた日焼け痕とか、殆ど開かない薄い唇とか、それなのに大口開けてパンにかじりつく無表情の面白さとか、 断片的に、日に何度か程度だが、確実に青八木さんが出て来る。 完全に病気だ。 心の病だ。 ペダルを回してる瞬間だけは無かったから少し安心したが、停車して一息つくとあの日の青八木さんを思い出す。 …確かに、男にしては比較的細くて小さくて、見ようによっちゃ可愛いと言ってもいいかも知れない。 何と言ってもバンビちゃんだ。 ただ、それだけだ。 バンビはともかく、細くて小さくて少々小綺麗な見た目をした奴なら青八木さんだけが特別とは思えない。 これはヤバいと自覚してから、翌日の昼休み。 校舎裏の木陰ですよすよと眠る真波を見つけた俺は……それを眺める事にした。 真波だって綺麗な顔をしている。 小さいと言う程でも無いが、細いし、可愛いとよく言われている。 女に。 地べたに転がって眠る野生児と言うには少々育ち過ぎた存在の頭の傍に立ち、そのままその場に座り込んで至近距離で本格的に眺め始める。 …改めて見てみれば、確かに 『可愛い』 と言ってもいい顔だった。 均整の取れた顔の部品もそうだが、それを良く見せる為に生まれつき備わっていたような穏やかに笑む表情は寝ていても損なわれない。 女共の目は確かなようだ。 そうは思っても 「いや心底どうでもいいわ」 と言うような気分が拭えない上、眺めていると普段のちゃらんぽらんな態度や毒舌までが浮かんで来る。 ふわふわ風に踊るアホ毛を引っ張ってやりたい衝動にも駆られるが、それは今は抑えて…このお綺麗な顔だけに集中する。 …これで真波が出て来るようになっても困るが、そうなったとしてもきっと青八木さん程は出て来ないだろう。 青八木さんがこんなに出て来るのは、会えないからだ。 次にいつ会えるか、そもそも会えるか会えないかも判らない。 大学へ進学した青八木さんはもうあのバカの保護者でも無いだろうし、ハコガクと総北との因縁からもその身は抜け出した存在だ。 自分の志望校に居るとは言え新生活で忙しいだろう人に、何の用も無いのにそう連絡も出来ない。 その点、真波なら少なくともあと一年は毎日のように見られるし、話す、青八木さんと違って。 …青八木さんと、 「ん…、ぅわきゃ!? な、なに、バシくん?? そんな所に座り込んで汚いよ……あ、ヨダレでも出てた、オレ?」 「そんな所で腹出して寝てるのは誰だよ」 すっとんきょうな奇声を上げて起きた真波は、確かにヨダレを垂らしてだいぶ間の抜けた表情をしながらも、やはり綺麗な顔はしていた。 眺める事に集中する内に近くなり過ぎた距離から引いて、ゆっくりと起き上がる真波をもう一度しっかりと見る。 目を、閉じる。 強制的に造り出した、明滅するような一時的な暗闇に浮かんできたのは――黄色味の強い金髪。 小柄な体躯。 青八木さんだった。 そして、目を開いたら真波だった。 「…バシくん、大丈夫? 体調でも悪いんじゃないの。 顔がヘンだよ」 「ほっとけ」 勝手に人の前髪を掻き上げて互いの額をくっつけ熱を計る素振りを見せる真波の顔は、近過ぎてもう何も見えない。 こいつ絶対こんなもんで熱計れねーだろ、と思うが、自分の気持ちに気付いたショックで抵抗する気力も湧かなかった。 …そうだ、見た目がどうだとか、そんな事だけで頭から離れなくなるのなら、初めて見た時からこうなっていないとおかしい。 「…ん、判らないね!」 「そーかよ」 「お前、あの手嶋さんに連絡とかしてんのか」 昼休みも残り少ないのに何事も無かったようにまた惰眠を貪り続けようとする真波のアホ毛を今度こそ引っ張って校内に連行しながら、出来るだけ然り気無く訊いてみた。 「ん? んー、してると思う?」 「質問を質問で返すんじゃねェよ。 合コンで 『いくつに見える?』 って訊いて来るアラサーか。 正解は実年齢の3歳下を推理して答える事か。 名探偵呼びてェなら密室事件起こせ!」 「クドいツッコミ伝染るよねー」 眠い時の真波は足取りまでふわりとしていて、こいつ絶対また授業中に寝やがると確信めいた予感を覚える。 「部内でも未だに時々流行るのはなんなんだろうな」 「地味に頭使って面倒だし飽きるんだよ。 でも、なんか思い出すんだけど。 大した反応も返って来ないのにあんなのずっとやってた黒田さんってスゴいね」 「オイ、で?」 脱線を無理矢理戻す。 「してないよ? こないだ大学合格したって坂道くんから聞いたから…おめでとうございますって思ったけど」 「それは連絡しろよ」 「別にー、連絡したい気持ちになんないからさー、なったらするよ。 そう言うものでしょ、バシくんも連絡したかったらしたらいいんだよ」 図星を突かれて肩が跳ねた。 いや、俺が連絡したいのは手嶋さんじゃない。 大丈夫だ。 「新開さんに聞いたけど、自転車部の人はほぼ全員通学二十分圏内とからしいしあの人も他にサークルとか入ってなくて彼女居ないらしいよ。 夜なら暇なんじゃない?」 …なんでいま、新開さんが出て来たんだ。 なんだかんだ真波が仲良くしてる方の新開じゃなく、新開さん? 洋南に進学した手嶋さんの話には出て来ない筈の人物の名に、また肩が揺れる。 彼女? 新開さんに彼女が居ない話か? それにしては、文脈がおかしくないか? 「あの辺は軒並み相変わらずだって。 福富さんも女の子のファン結構居るのに、そう言うのはいいんだってさ。 あ、洋南の広島弁の人だけは遠距離してるって荒北さんが言ってた」 広島弁の人じゃなく広島の人だろ。 …いや、それはどっちでもいいのか? くそ、また脱線しそうだ。 「泉田さんはバシくんのがよく話してるかな? でも俺にも連絡くれるよー ちなみに東堂さんはね」 「おい、今の…誰の話だよ」 お互いの 『一番の先輩』 の名前を出して心做し嬉しそうな表情をした真波を遮る。 東堂さんの話は今度聞いてやる。 「…東 堂 尽 八 ?」 「その前」 「……土佐の闘犬??」 「呉だよ!! もっと前!」 「黒田さ」 「後!!!」 「あ、青八木さんかー」 やっぱりだった。 なんだこいつ。 「連絡したいんじゃないの?」 「…なんで」 立ち止まり、人の中身を見透かすように顔を覗き込んで来る瞳はさっきまで散々勝手に眺めていた相手の普段通り穏やかな表情なのに…どこか空恐ろしく感じてしまう。 もし最近の俺の症状まで知られていたら、そんな疑念まで沸き上がる。 「俺に 『手嶋さんに連絡してるか』 って訊いたから? 総北の人の事かな、って。 バシくんは手嶋さんとは連絡先交換してなかった筈だし、鏑木くんや同学年相手なら気にせず連絡するだろうし…消去法?」 もうこいつと話すのは嫌だ。 種明かしを聞きながら、そもそも自分が迂闊だったと気付かされる。 「当たってた?よね? 用が在るなら連絡したらいいじゃん」 そこで予鈴が鳴って、真波は教室に入って行った。 用は無い。 いや、在る、のかも知れない。 …でも、 …………彼女、居ないのか。 一番に部活。 インターハイで無様な真似は出来ねえ。 そして、二番は勉強だった。 元々の志望校に青八木さんも居る。 一般入試でも絶対に合格してやる。 インハイに向けてのトレーニングやレースはびっちり組み込まれている。 それに当然授業と、進学ゼミ。 自主トレ、自主勉強。 明早や洋南が出ると言うレースを見に行く事も碌に出来なかった。 目まぐるしく過ぎる日々の最初の区切りは夏だった。 俺の最後のインターハイ。 そこには青八木さんも居たが、あの人は卒業してもオレンジの保護者だった。 顔を合わせて話せた事が奇跡だった。 大学の話を少ししただけで、終わった。 喧騒の中では静か過ぎて見逃してしまいそうだ。 やっぱり、また二人で話したい。 「また、でかくなったんじゃないのか」 「……ああ、まぁ…」 そして、俺は今ここに居る。 長い前髪に隠れてよく見えない事で逆に遠慮無く視線を向ける事が出来る横顔を眺めながら、脳ミソが浮かれきっている事は自覚していた。 なんなんだ、花、って。 そうは思っても、黄色と緑の鮮やかな色彩を持つ植物もそれを背景にベンチに座る青八木さんも、特別に見えた。 ぴっと伸びた姿勢でどこか空を見ている青八木さんは二年前と変わらない。 アンタは小さいままだな、と言い掛けて口を噤む。 「パン、好きか?」 「え」 何の前触れも無く、食い物の話を振られた。 ざり、と足元の砂を鳴らして此方に向き直った人の片目と目が合い、内心が跳ねるような感覚になるが極力外には出さないよう努める。 「好き、です」 唐突な質問に確りと考える間も無く、取り敢えずで殆ど鸚鵡返しに答えた。 パン、…普通だ。 でもまぁ、嫌いじゃない。 そうか、と呟いた青八木さんが鞄を覗き込み確認しながら取り出したのは…数枚の紙切れ。 印刷されている茶色い雲形の図形と、暖色系の配色が目に入った。 「やる。 入学祝い」 どうやら、パン屋の無料券のようだった。 「え、いや、悪いです」 「いいから、この店、近くなんだ」 そこも取り敢えずで形骸的に恐縮してみたら、青八木さんは座り直すように俺に近付いて券を更に突き出してきた。 青八木さんから物を貰えるなんて想定外だ。 そうか、一年前に俺も何か用意したらよかったのか。 だが、あの時はまだこんな気持ちになるなんて思ってなかったし、正直言や今だってこの気持ちがどんな種類のものなのか……図り兼ねている。 「ほら」 「あ、はい」 俺の受け取りを待っていたらしい青八木さんの伸ばしたままの腕が上下にゆるく振られる。 地味に腕がだるくなるような格好を 『先輩』 にさせたままぼうっとしていた事に気付き、反射的に両手を開く。 開いた俺の手の上に何気無く下りて来た青八木さんの手が重なって、 触れた瞬間、 「!」 俺よりも正直だった俺の手は……紙切れを通り越して青八木さんの右手を両手で捕食していた。 「…………」 「…………………」 沈黙。 この状況で止まったまま黙るか、フツウ。 …お互いに、だが。 右手をがっつり掴んでいる。 両手で。 男子学生が二人並び図書館前でやる事では無いだろうが、端から見れば握手に…見えるだろうか。 「握手がしたかった」 で、通るだろうか。 唐突か。 意味の通らねェ動機で精神鑑定に備える凶悪犯か……いや、ダメだ。 もっとこう… 『夢見る少女』 とか 『妖精』 とか、可愛らしげな単語を織り交ぜねえと……、なんだよ凶悪犯って。 アラサーって。 ぐるぐる忙しなく回りクドいツッコミのフォロワーとしての心得まで出て来た頭の中とは裏腹に…掴んだ手は振り払われはせず、いつまで経っても体勢は変わらない。 俺はただただ自分の手を凝視し続けるしか無かった。 目の前に在るその表情を確認して、ドン引きされてたり怒りや嫌悪を隠さずに居られたら…流石にへこむ。 もしも泣かれていたら、どうするか。 …しかし、すごい。 これまでは恋人同士が手を繋ぎ幸せそうに歩く姿を見ても、 歩きにくそうだとか冬なら多少の暖が取れるのかとか…その程度の感想しか出なかったが、実践してみて解った。 すごい。 俺の手からはみ出る指は握られている所為できっちり揃っていて、正方形に近い形で切り揃えられたその爪がよく見えた。 膚に感じる体温は紛れも無く青八木さんのもので、その表面は滑らかだ。 中に流れる血潮を脈打たせる鼓動はもしかすると俺自身のもので掻き消されているのかも知れないが、ずっと碌に会いもせず想うだけだった相手と鼓動を重ねるような零距離に居ると言う事実には危険さえ感じる。 こんなにも現実感が無いのに、圧倒的に智覚させられる現実に混乱しきった頭が涙腺までゆるくさせるから…舌の先を噛んでそれだけは堪える。 頭と顔と…それから下半身に身体中の熱が集中するようで、一刻も早く離さないと大変な事になるとなけなしの理性が警鐘を鳴らすが、抗えない。 恋をしている気で居たが、こんな気持ちは初めてだったし、会えなかった期間も長い。 何より男同士だ。 何もかもが半信半疑でも在った。 簡素過ぎて何言ってんのか解りにくい事も多いメッセージを通して眺め、心に浮かぶ蝶みたいに日常の意識の中に発露する存在に思う事は、どこか遠く自覚の出来ない憧憬のようだった。 真波とか新開とか目当てでつるんでチャリ部を眺めに来る女共のような気分で、自分も青八木さんを見ているんじゃないか。 そう考える事だって在った。 でも、違う。 これは紛れも無く恋だった。 恋愛だ。 手を届かせて、手に入れて…、 『応え』 が欲しい。 「!!」 「手もでかいな、当たり前か」 俺が自身の胸懐に改めて名前を付けた途端、青八木さんの手が動いた。 正確には、捕まっていない左手が動いた。 青八木さんは右手を券ごと掴まれたまま、自由な左手で俺の指や手の甲を触っている。 細っこくて短い指が俺の肌の上を撫で回し、指や手の厚みを確かめるように軽く握る。 触られたから触っていいと判断したと言う事か? いい訳が無い、触んな。 死ぬ。 俺が。 ……いや、これは。 「流してくれるんだな」 「え、」 青八木さんは薄々…かどうかは判らないが、気付いてる。 その上で、引きも怒りも泣きもせず、そのどれかの感情かそれ以外かを隠して…或いは本当に何とも思わず、平然と無かった事にしてくれようと、しようとしてる。 だが、そんな事は許さない。 気を取られたのか人の手を撫でる形のまま力が抜けた青八木さんの手をもう一度捕まえ…今度は両手で両手を掴んで引き寄せてから、至近距離でやっと目を合わせる。 目を丸くして面食らったような顔は初めて見るものだった。 そうだ、俺は道の怪物。 バンビちゃんなんか追い掛けて追い詰めて――喰ってやる。 「青八木さん、好きだ。 男同士で、大して親しくもねェのに変だと思うかも知れないが、二回のインターハイ、群馬、湘南、今。 文字で話してる時も、俺はアンタを見てた。 それで気付いたんだ、これは恋だ。 アンタの走る姿も、真面目なとこも無駄口叩かないとこも、今となっては見た目も全部好きだ。 付き合ってく」 ばしゃ 「…ださい」 …………何の音だ。 ばしゃ、そうだ…、擬音にすればそう言う音だった。 そんな音が、頭の真上か、もしかすると俺の頭から…聞こえた。 ボルテージの上がりきった頭では理解が追い付かない。 甘い。 冷たい。 これは。 視界が悪い中でどうにか目の前を見ると、さっきまで目を丸くして俺を見ていた青八木さんはもう俺を見ては居なかった。 その視線を辿ると、俺達の座るベンチのすぐ近く、正面に人影が在る事に気付く。 くそ、気付かなかった。 いつからだ。 誰だ。 纏まらない思考と視界の悪さを振り払うように顔を上げると、 そこには、 「かぶらぎ!?」 「オレンジ!?」 俺と青八木さんの想い出の端々に見切れていたオレンジ色。 「なんでてめぇがここにいんだ、オレンジ!!」 鏑木一差が居た。 暦の上では春とは言え、水道水はまだ冷たい。 丁度ベンチの近くに在ったのは花々の為に用意された撒水用の水道だろうが、鍵などは無かったから勝手に使わせてもらった。 座り込んでホースで頭を流し水を振り落として顔を上げると、青八木さんが申し訳無さそうにハンドタオルを差し出していた。 「…あざす」 「本当、ごめん。 何て言ったらいいのか…。 あいつにも反省させて、謝らせる」 水は冷たい…が、我慢出来ない程じゃない。 まだ陽射しは在るからその内になんとなく乾くだろ。 甘冷たさの理由は、俺の頭上から一本まるごとブチ撒けられた炭酸飲料オレンジビーナだった。 青八木さんは運動部のシャワー室を使えと言ってくれたが、入学したばかりの俺はまだ部員ではないから断った。 「オレ、ぜっっったい謝りませんから!!」 さっきまで俺と青八木さんが座ってたベンチにふんぞり返るオレンジアタマ…こと鏑木は、何故か偉そうに腕組をしている。 そして、すぐ青八木さんに二の腕をはたかれた。 「叩いても謝りません! 反省しません!! オレ何も悪くないです! あのブタが、ブタで……っ 青八木さんが危険だったから助けてあげたんですよ!!」 「バカ!! 何もされてないだろう!? 助ける必要が無い!! 何にしてもやり過ぎだ! ブタ言うな!!!」 青八木さんが珍しく大声で饒舌に叫んでる。 バカとか言ってる。 新鮮だった。 人に暴力めいた注意をするのも滅多に見られない…と言うか、言う事を聞かないオレンジの耳を引っ張っているところくらいしか見た事が無い。 結構すぐに手が出るタイプなんだろうか…、気が合うかもな。 何にしても、レアな青八木さんが見られるのは、多少楽しかった。 「…あー、あの。 こっちも殴られたとかってわけでも無いんで、後でいいす、後で」 服は薄く染まっているだろうが、不幸中の幸いか濃色だ。 青八木さんの前で喧嘩など出来ない。 特に今日は。 レア青八木さんを見られた事に免じて無罪放免でもいい。 だから部外者はどっか行け。 「そんな事より、話の続きを」 「ハァ!? めげてないのかよ、ブタァ!」 「何度言わせるんだ!! バカ! バカ!!」 ……うるせえ。 人が集まって来てもおかしくない騒々しさだが、土曜日で人が少ない上に背後に見える図書館は休館らしく他には誰も来る様子は無い。 「おい、オレンジ」 「…なんだよ」 声を掛けると、鏑木は器用にもふんぞり返ったまま心做し及び腰になった。 「お前、まだ青八木さんに世話して貰ってんのか」 「関係無いだろ」 …そもそも、なんでこいつが此処に居んだ。 本当に。 青八木さんは俺が連絡した時には、今日は休みで予定も無いと言っていた。 そんな事を言ってダブルブッキングなんてする人では無い、だろ。 たぶん。 「鏑木、お前なんで此処に居たんだ」 さっきまで本当に全力で叫んでいたのか、トーンを戻した青八木さんの声は少し枯れている。 この人にとってもやはり鏑木の登場は想定外だったようだ。 そりゃそうだ、順当に考えればこいつは後一年は高校生で、千葉の高校生だ。 今此処に居るからには今日は休みなんだろうが、家だって千葉だろ。 ロードレーサーを脇に立て掛けてジャージを着込み、膨れ面をする姿を横目で見る…、よくは知らないが時間にして数時間は掛かる距離だろう。 目的無く出掛けて、会う約束もしてない元先輩のところになんて、辿り、着く…か? …何か、嫌な予感がして来た。 「会いに来たら、だめなんですか」 急に萎れ出した鏑木に、嫌な予感は益々大きくなる。 「…駄目じゃないけど、アポ無しだと予定が在ったり、居ない事も在る。 実際探したからこんな所に居るんだろ、連絡くらい」 「予定って、ブタに告白される予定ですか!?」 …都合良く何も聞こえて居らず、暴力を振るおうとしているとでも思われていたセンは消えた。 「いや、そんな」 「青八木さんのアホ! 簡単に手握らせて、ずっと握らせて、本当アホです!!」 そこまで言うと鏑木は勢い良く土を蹴って立ち上がり、青八木さんの両手を両手で握った。 尤も、俺のように両手纏めてでは無く肩の高さで右手は左手を…左手は右手を握ったから、フォークダンスのような体勢だったが。 「え」 「おい! オレンジ!!」 「オレだって、青八木さんの事が好きなのに!!!」 叫ぶなり鏑木は、青八木さんの肩に凭れ掛かり…静かに泣き始めた。 「うっ…、ぶぇ…、うぅ……」 青八木さんは鏑木に寄り掛かられながら、既に解放された両手は握られた時の高さで固まっていた。 お手上げ、のポーズにも見える。 俺も泣けるなら泣きたいくらいの状況だが、特に泣けはしない。 でも、どうしてこうなった…。 ――数瞬、自分が無意識で虚空を見つめていた事に気付く。 目の前の現実に意識を戻すと、青八木さんはそのままの体勢で顔だけを此方に向けて俺を見ていた。 「増えたな」 「…増えたスね」 嫌な予感は当たった。 春のゆるやかな陽気の中の昼下がり、黄色やオレンジ色の花が一面に咲いた大学の図書館前。 そのベンチに、俺達は三人、並んで座っていた。 片や、炭酸飲料のち水とタオルを被った男。 片や、泣きべそをかいて目鼻を真っ赤に腫らす男。 そんな地獄絵図の真ん中で、青八木さんだけは普段通りのぴっとした様相だった。 …服の袖にオレンジビーナの飛沫、肩に鏑木の鼻水が付いては居たが。 「銅橋」 声を掛けられて恐る恐る右を向く。 鏑木も動揺したのが座面と視界の端から伝わって来た。 青八木さんは俺の目を見て言う。 「好きだって言ってくれて、嬉しい。 銅橋はいい奴だし、趣味も合うから付き合えたらきっと楽しい。 でも、今までそう言う事を考えた事が無かったし、今考えても…よく解らない。 こんな気持ちでは銅橋に向き合えないし、俺よりも他にもっと銅橋に相応しい人がたくさん居ると思う」 …だよな。 「銅橋とは付き合わない」 「…ありがとうございました」 諦めなら罵声でも浴びせかけられた方がつくのだろうが、相手を傷付けない断り方には安堵する。 青八木さんのその表情は普段通り大きく崩れる事は無かったが、下がった眉尻に 『気を遣わせている』 事をひしひしと感じる。 「やあったぁ! じゃあオレと付き合うんですよね!?」 人がフラれる様を見て喜色を隠さず本当に嬉しそうな声を上げるオレンジは無神経にも程が在る。 もし隣に座っていたなら掴み上げるところだった…が、そう言う事なのか? 恋を本物だと確信した直後、振られて即失恋。 その上、負けた相手がこんなバカだと言うのか? 報われない。 こんな筈じゃなかった。 「鏑木とも付き合わない」 よっしゃ。 思わず心の中でガッツポーズをする。 「ハァ!? じゃあどうするんすか! 手嶋さんと付き合うんですか!?」 「純太を巻き込むな。 なんで誰かと付き合わないといけないみたいになってるんだ」 そりゃそうだ。 突然出て来た名前に、そう言えば仲が良さそうだったとスマホの中でのやり取りを思い出す。 これ以上話をややこしくしないで欲しい。 「そう言う予定が無い。 気が無い。 だから、銅橋とも鏑木とも付き合わない」 「…え? あれ? オレも今振られてるんですか?」 「うん」 「ずるい! オレは付き合って欲しいとか言ってないですよ!! 振るならブタだけでしょ!」 「ブタ言うな」 「あだっ、ちょ…、痛い痛いいたいいたい!」 耳を引っ張られるオレンジアタマを眺めながら、俺は思考を巡らせる。 結局のところ、振られた。 それはいい、告白してしまった以上は想定内だった。 「それに、銅橋は進学したばかりで鏑木は受験生だろ。 他にやる事が在る」 「来年なら付き合ってくれるんですね!」 「来年…、インターンが在るから俺が忙しそう」 「インターンってなんですか!」 隣で脱線し始めた話は話半分に聞き流し、考える。 本当は、告白する気なんて無かった。 今日は。 成功率が低い事は自覚している、何よりさっきまでは自身の気持ちがどんな種類のものかさえ正確には把握して居なかったくらいだ。 ただ、どちらにしても近付きたかったし、二人で話したかった。 その程度の殊勝な気分で呼び出した、それが自分の中での意識だった。 まぁ、それは俺の意識よりも素直だった俺自身の直情がぶち壊したわけだが。 抑えが利かない事を身を以て自覚してから、オレンジが出て来て頭を冷やされた事で…逆に考える時間は出来た。 やってしまった事は仕方が無い。 フラれはしたが記念告白で流して、次だ。 生理的に無理レベルでの拒否をされればそこからの回復を挑まなければならないが、告白されている間からの表情を見ればそこまでの事は無いと判断がつく。 当たり障りの無い事を言うのも申し訳無げな顔をするのも社交辞令と考えるのが普通だろうが、少ない接点の中でもずっとこの人を見ていた俺にはそうは思えない。 青八木さんの空気を読まない無表情は折り紙付きだ、社交辞令で表情を変えるような事はしないだろう。 生真面目なこの人は、見知った下級生の告白を断った事を罪悪感に近い感情で引け目に思っていると取った方が自然だ。 無理に言い寄る事をせず、真摯に 「せめて友達に」 とでも言えば、それは許される予感がした。 そこからは俺自身が切り開かねばならない未来の話になるが、プラス思考で考えれば一度気が在ると意思表示してるのだから好悪はともかくとして性愛対象として見られていると言う意識は生まれる。 そこで…、考えたいわけじゃねえがオレンジの事を考えなければならない。 未だにインターンの説明をし続ける青八木さんと鏑木、その距離は近い。 きっと、鏑木の方も意識せずにこんな距離で居る。 この人の自閉的でマイペースな性質や、彼女が居ないと言う (但し一年前の) 情報で……無意識に楽観視していたのかも知れない。 恋敵が一人も居ないなんて保証はどこにも無く、実際にエンカウントしてしまったのは少々面倒な部類の恋敵だった。 一年間とは言え、部活で傍に居て直接面倒を見た後輩だ。 どう考えても俺より親しい。 俺ならこんなのの世話役をするのはごめんだが、青八木さんだって誰かに強制されてこうしてるわけでは無いだろう。 後輩として特に大切に思って居るで在ろう事は端から見ていても解る。 そうして、 「何の為にするんですか?」 とインターンシップ制度への疑問をぶつける鏑木を改めて見てみると、見た目だけなら意外にもそこそこ整っている事に気付く。 …少なくとも、規格外にデカい俺より後輩として可愛らしいと思える外見はしているだろう。 尤も青八木さんの趣味は解らずそこは考えても仕方無いから、こいつに顕かに負けてるのは今までの時間だけだ。 だが、二人共の気持ちが発覚してしまった以上、その今までの時間が一番のアドバンテージだった。 幾らこれからは俺の方が青八木さんと過ごす時間が増えると言っても、スタート地点が違う。 俺自身が切り開く未来は、時間にして言えばきっと何ヵ月も、もしかすると何年も先の話だ。 その間、このオレンジが何もせず手を拱いているとは思えない。 自分の気持ちは露呈してしまい俺が恋敵だと知った以上、焦りムキになり駄々をこねるような調子で自分と付き合えと言い続ける様子は手に取るように解る。 …そうだ、顕かに負けている部分はもうひとつ在る。 俺はあそこまでバカになれない。 真剣に考えて付き合えないと言う相手に対しその場で食い下がるなんて事は、極々常識的な思考回路しか持ち得ない俺には出来ない。 しかし、世は往々にしてああ言うバカや自分の事しか考えずに主張する者がゴネ得をするように出来ている。 ――冗談じゃない。 「おい、青八木さん」 「? なんだ」 立ち上がり、青八木さんの正面に向き直る。 インターンについてはGoogleに任せたようだ。 青八木さんの携帯を指でなぞりながら見詰める鏑木は放って、話を進める。 「アンタは俺に生理的嫌悪感を抱くか?」 「…そんな事無い、断、るのも、本当に今はそう言う事を考えられないだけで」 やっぱり。 訊いても居ないのに辿々しく言い訳を始める青八木さんは、鏑木にはどうか知らねえが俺には罪悪感を抱いてる。 あと、断り方は優しいがその分下手くそだ。 つけこまれる隙を残している。 「じゃ、この…鏑木には?」 顎で指し示した先を素直に見つめ考える青八木さんと、何も聞いていなかったのか俺と青八木さんとに交互に視線を彷徨わせ顔面に張り付けた疑問符を隠しもしない鏑木を、漫然とした視界で捉える。 「…それも別に無いな」 「そして、来年にはインターンシップが控えてる、と」 「ああ」 ずい、と、膝頭が接触する寸前まで青八木さんに近付く。 仁王立ちの俺を見上げ今度はこちらに目を合わせようと伸ばされる青八木さんの首はつらそうな角度だが、動じて身動ぐ事は無い。 肝座ってんな、この人も。 「じゃあ、一年」 「一年?」 「一年間、試しに俺達二人共と付き合ってくれ」 青八木さんは、未だ嘗て見た事の無い――間の抜けた表情になった。 俺だって、ゴネてやる。 「………は?」 「青八木さん、俺及び鏑木と同時に付き合ってくれ。 …勿論、 『試し』 に、だ。 少なくとも俺はアンタが嫌がってんのに無理に手を出したりしないし、アンタは何も応えなくていいから、近くで俺達を見定めて欲しい。 大した理由無く今は誰とも付き合えないで終わりじゃ納得出来ねえ、チャンスが欲しい」 「…………え、ちょ」 「途中でどっちかと本気で付き合う気になったり、どっちともこの先は無いと思ったり、他に好きな奴が出来たりしたら解消してくれていい。 試すのすら嫌なら、今この場で俺か鏑木か両方かをもっと明確で具体的な理由で以て振ってくれ」 青八木さんが充電不足で動きそこねた機械みたいに小さく声を漏らしつつまごついて居る隙に、考えていた内容を一息で言う。 噛まずに言えた事に謎の達成感を感じて息を吐いた。 場を、沈黙が包む。 「銅橋」 「…はい」 暫く固まった後で再起動したように瞬きを数度繰り返し、顔を少し俯けた人の口が開く。 ここで 「何言ってんだお前」 や 「実は好きな人が居る」 、或いは 「男は無理」 とでも言われたら今日のところはもう終わりだ。 出直そう。 「どうして一年なんだ? 試すには長くないか」 しかし、出て来た台詞はそんなものだった。 この流れでそんなところが気になるのか、この人は。 …いや、普通気になるか。 「年単位の話してたから、なんとなく」 「………………」 「途中で解消出来んだから何でも問題ねェだろ!」 口から出任せに言っていた事を見透かされたような気がして、少し焦る。 急場でそこまで考えてねえよ。 また無表情に戻り黙って何かを考えているらしい青八木さんは、もう俺の目を見ては居ない。 即断での拒否、 「男は無理」 などを忘れている辺り、機では無かっただけでテグス糸程度の脈は在るのだろうか。 …………俺と鏑木、どっちにだ? 「正直、」 「あ゙ぁッ!!?」 つい、自分のジャージに隠れて見えなかった影が脳裏に浮かんで…その正体は今は斜め前方に居ると言うのに背中が気になってしまう。 その瞬間ノーモーションで喋り出した青八木さんに吃驚して変な声まで出た。 違う、威嚇したいわけじゃ無くて。 「…悪い」 謝られた。 「いや、 …こっちこそ、で?」 「ん、いや、正直、鏑木はともかくお前に食い下がられると思ってなかった。 嘘だと思ってたわけでは無いけど…本気なのか、と」 意外にも、そう言って俺を真っ直ぐに見据える青八木さんの表情には特に翳りも無く嫌悪感も見て取れない。 こんな事を言われてまともに取り合ってんじゃねえよ、真面目か。 ……そんなところも、好ましいんだが。 ふと別の視線を感じて横目で確認すると、青八木さんの隣に座る鏑木も呆れた表情…いや、これは理解が追い付いてない顔か、そんな表情で俺を見ていた。 「なんだそれ…、一人ずつ断られてるのに二人になったら余計断られるだろ? ブタ、お前さては…バカだな!?」 オレンジに言われると正論でも特別腹立たしいが、今となっては青八木さん以上にこいつを逃すわけには行かない。 「…考えてみろよ、鏑木一差。 試して貰えりゃ純粋にチャンスが在るし、取り敢えずでも 『二択』 になれればその間俺達の最大の敵はお互いだ」 もう一回二の腕を叩かれた奴の視線が俺に戻って来るのを待ってから、しっかり目を見て言ってやる。 「え、あ? …うん?」 「俺はお前なんかより自分が何百倍も青八木さんに相応しいと思ってるが、お前だってそうだろ?」 「…!」 前半はしっかり頭に入らなかったようだが、大切なのは後半だ。 これはこいつを唆す為の口から出任せでは無く俺の本心で、そしてこいつが同じ事を思っているで在ろう事も知っている。 俺がこいつにだけは負けたくないように、こいつも俺には負けたくない筈だ。 実際に顔色の変わった鏑木は、都合の良い事にとびきりのバカだった。 最悪、青八木さんが無理でもこいつさえ言いくるめられればそれでいい。 このまま個々にアプローチを続ければ、俺の知らないところでどうなるか解らない。 こうやって何でも真正面から受け取ってしまう青八木さんは、二人きりの状況で鏑木がまた泣き喚けばそれだけで仕方無いと落ちそうな気すらする。 なら、二人きりになんかさせない。 鏑木を一旦同じ土俵に上げて、競う名目で一緒に居ちまえばいいんだ。 こいつの橋渡しもする事になるかも知れないが、それ以上にこいつに橋渡しをさせてやる。 背中に感じる気配は脅威だが、同条件で正々堂々勝負をすれば勝てない相手では無い。 その筈だ。 「……そりゃ、まぁ」 「明確で具体的な理由か…」 簡単に黙ったオレンジの隣で本当に真面目に考えていたらしい青八木さんが口を開く。 どきりとして青八木さんに注目する。 そうだ、それが在ったらお仕舞いだ。 男は無理は勿論、やっぱりデカくて恐いとか歳上が好きだとか、何が出て来てもおかしくない。 「無いな」 「ねェのかよ」 ついツッコんでしまった。 いや、何か在んだろうよ……、普通は。 明確で具体的な理由が在ったとして、それを口には出すのは憚られるだろう、双方にとっての第三者が居る此処では尚更。 …と言うような卑怯とも言える打算も在ったわけだが、本当に無いらしい。 「え、じゃあ青八木さん付き合ってくれるんですか!?」 本来なら仮にも付き合う相手の先に俺が居るような状況をこいつの方が嫌がってもおかしくないようなものだが、何も考えていないのか鏑木は嬉しそうに言う。 「… 『試し』 だろ。 二人共とって事は、三人で一緒に居るのか? 別?」 「前者で… 『試し』 なんだし」 別で同時進行なら個々でのアプローチと同じだ、警戒心や罪悪感を解く為にも 『試し』 を強調しておく。 何より、三人で居ればこんなうるさい状況にしかならない。 身の危険も感じる事は無い……と、考えさせるのが目的でも在る。 「…………わかった、やってみよう」 「…ありがとうございます」 こちらを振り仰ぎけろりとした軽い調子で、青八木さんは了承してくれた。 内心の歓びを隠して、頭を下げる。 邪魔なのは付いて来るが、こんなに早くこの人に近付けるなら文句は無い。 「やったー! 早くオレと付き合うって決めてくださいね!!」 体当たりをするような勢いで青八木さんに凭れ掛かる鏑木は大目に見てやる。 今日、俺が一人で振られ一人で試しに付き合えと迫っていたとしたら…十中八九気色悪がられるか引かれるだけだったろう。 この交渉は可愛らしくバカで、おまけにすぐ泣くような… 『特別な後輩』 が居て、且つ混乱した状況だったからこそ出来た事だ。 ――お前が持ってたアドバンテージにタダ乗りして、最後に勝つのはこの俺なんだよ。 「じゃ、行きましょうか」 凭れ掛かるオレンジアタマを押し返す人に、手を差し出す。 その表情は心做し和らいでいて、これも 『特別な後輩』 効果かと思うと癪では在ったが…顔には出さないように努める。 「? どこに」 「取り敢えず、此処から動こうかと。 …あ、パン屋行きたいすわ。 連れてってください」 「…ああ、そうだな」 事の発端からずっと青八木さんが握り締めたままだったらしい無料券が、その手の中でかさりと音を立てる。 破れが無いか確認でもしているのか左手に持つそれに視線を向けながら、青八木さんは右手で俺の手を掴んだ。 触れた箇所からじわりと拡がる体温の威力は、やはりすごい。 が、 「?」 腕を引きベンチから立ち上がらせた青八木さんの右手は解放せず、左肩に手を置く。 肩幅が狭いのは知っていたが、触ってみると奥行きさえも無い。 指に伝わる感触から骨は太そうだと判るが……それでも折らないよう気を付けねえと。 距離の近さに疑問も抱かず何の警戒心も無いような顔で俺の目を覗き込む瞳は、この人の走りを…そのスタイルを思い出させる。 本来、草食動物は用心深いものだが、何しろ 『バンビ (小鹿) 』 だ。 間近で見る顔は平坦で滑らかで…反芻し薄れる事を阻止し続けていた記憶の中のものより魅力的に思えた。 左手を腰にスライドし、右手は青八木さんの後頭部へ……こんな時だが、指に伝わるサラサラした髪の感触は感動的に気持ちよくて少しだけ気儘に撫でる。 「ちょ、銅ば……!」 草食動物の焦ったような声は、それが拒否を明確な言葉にする前に――飲み込んでやった。 「!!! …ん、ぐ……ぅ、ぁ…………」 力任せに拘束した青八木さんの粘膜の味を堪能する。 薄い唇は何か言いたげに開いていたから、遠慮無く舌を口内に浸入させる。 並びのいい歯列をなぞり口蓋にまで辿り着くと少し苦しそうな声が漏れたから、一度戻る。 頬の裏、舌の下側、余すところ無く舐め回してから、舌を吸い上げた。 力が抜けたように無抵抗でされるがままの薄い舌を吸いながら舐め回すと、びくびくと青八木さんの身体が跳ねる。 その拍子に手の位置がずれてしまったのは、不可抗力だろう。 手の中に滑り込んで来た尻には弾力性に富んだ肉が薄くもむっちりと付いて居て、ついぐにぐにと揉んでしまう。 ちゅく、ぷちゅ、と洩れ出る音の合間に青八木さんのくぐもった声と、二人分の整わない荒い吐息が交ざる。 時折跳ねる身体を抱き締めながら撫でると、それに反応してまた身体が跳ねる。 かわいい。 「…っっざけんなブタこの野郎!!!!!」 瞬間、脛に痛みが走るが、堪えた。 予想はしていたから特に驚く事も無い、それより…今は目の前のごちそうに集中したい。 何の味もしない口の中は、それでも味覚として例えるなら美味だった。 舌を動かし続ける内に溢れた唾液が青八木さんの口許から流れるのを顎で感じて、こぼさないように啜り飲んでやる。 そのまま、まだ続きをしていると今度は頬に衝撃が来た。 …まだ堪える事は出来たが、顔はまずい。 青八木さんにダメージが行ったら困る。 口内への浸入を中断してゆっくりと顔を離すと、唾液の橋が名残惜しそうに伝い、切れる。 「ふ……ッ、ぁ、はぁっ……!?」 暫く触覚と味覚…それに聴覚だけにこれでもかと言う程集中していたからか、ゆっくり開いた目で久し振りに使った視覚で捉える世界は夢みたいにぼんやりとしていた。 そうしてから初めて見た青八木さんの顔は…真っ赤になって俺を見ていた。 一時的にでも俺だけを見詰める姿に溢れる感情は言葉にしない方が不自然だった。 好きだ、と短くもう一度伝える。 「っ………!」 口は半開きのまま、唇の端からはどちらのものとも知れない唾液が零れる表情は扇情的で…発情したような顔にはそそられるが、心底安心したような気分にもなる。 全く意識していない相手に、する顔じゃねえよ、これは。 薄い唇から垂れる雫を指で拭ってから、触れるだけのキスをもう一度した。 途端、まるでオレンジビーナのペットボトルで横から頭を殴られたみたいな、軽くてやたらにいい音が場に鳴り響く。 音の割に全くダメージの無い攻撃は漫才師のツッコミを彷彿とさせて、どこか面白かった。 そして、そんな事に気を取られている内に、青八木さんは崩れ落ち……顔面から地面に突っ伏していた。 「はっ、………はぁ」 息を整えようとする青八木さんは、地面に座り込んだままベンチに凭れ掛かっていた。 鏑木に支えられ、顔面から爪先まで地べたに付けた状態からは取り敢えず這い上がって来ている。 ちなみに、俺も支えようとしたが、渾身の力で振り払われたので取り敢えずは引いた。 まだ上気したままの顔で座面にへばり付いて項垂れる青八木さんをぼんやり眺める。 やっちまった。 しかし…、まさか倒れるとは思わなかった。 間の悪い事に地面はさっきの俺の水浴びで結構な湿り気を帯びていて、青八木さんの顔も服も泥まみれだ。 払ってやりたかったが、さっきの今で触ってまた不興を買うのも躊躇われる。 「おまっ! お前!! 何やってんだよ!!!」 青八木さんの背中をさすりながら状況に狼狽える鏑木に目を向けると、こっちも青八木さんに負けず劣らず真っ赤だった。 そういやすぐに来るかと思っていた妨害はやたら遅かったし、青八木さんを味わうのに結構な時間を掛けれたのはそのお陰でも在る。 呆気にとられていたのかも知れない。 「キス。 試して貰えるんだろ」 「お前! お前が一番アホだ!! アホでバカでブタ!!! 青八木さんやっぱりブタです、こんな奴ブタでいい!!」 そんなどうでもいいような事を叫びながら、鏑木はぐったりした青八木さんの肩を両手で掴みガクガクと揺らす。 やめて差し上げろ。 ――意識下で理屈をどれだけ捏ね回しても、勝手に動く身体には逆らえなかった。 どうにか開き直ろうと試みはするが、内心ではここまでの全てが水泡に帰す気しかしない。 やばい。 ただ、何にしてもオレンジの先だけは越せた。 「…………ブタでいい」 そうして居る内に、鏑木は青八木さんのお墨付きを得て居た。 そのやり取りはいちいちめんどくさかったからまぁいいとして。 「ほら見ろ! ブタァ!!」 「うっせーな、だったらお前もすりゃいいだろうが」 青八木さんの身体がまた跳ねる。 あからさまな反応が面白かったが、そう言う俺も恐らく顔は真っ赤で、鼻血を出していないのが奇跡だ。 真っ赤な男三人がギャアギャア言い合う地獄にクラスアップした地獄はまだ続く。 「ハァ!? おっ俺は…、そんな…」 ああ、こいつ童貞だ。 俺も人の事は言えないが、こいつはもっとずっと――子供だ。 付き合うって事の意味も碌に考えずそれがゴールだとでも思ってる…それこそ 『夢見る乙女』 みたいな反応に、やっぱ敵じゃねえなと考えを改める。 そりゃそうだ、こんなに期間も親密さも在って告白すら出来なかった事が全てを物語っている。 「そうかよ。 まぁいい、俺は好きにやらせて貰うぜ」 言った瞬間、青八木さんがびくりと今度は顔まで跳ね上げて俺を見る。 口を固く引き結んだまま 「マジかよ!?」 とでも言いたそうな顔はまだ紅く、自分の事や状況は棚上げしてやっぱり面白かった。 そうだ、きっと泣き喚いて嫌がられでもしないと、諦めると言う選択肢すら出て来ない。 また振られたところで、衝動のままに生きるだけだ。 「そうだ、嫌がってるのに手出ししないって言ってただろ、お前!!」 「嫌がる前だろ」 我乍らひどかった、もしこれが他人事ならオレンジとは言えこいつの肩を持つところだ。 「屁理屈! 屁理屈ブタ!!」 「おわ」 ギャアギャアやかましいオレンジは悔し紛れなのかその場で二度ほど地面を踏み鳴らしてから、俺の後ろから飛び付き…何故か頭にしがみついて来た。 よくわからない攻撃だったから多少驚いたが、首が絞まるわけでも無く、重いが特別痛いと言う事も無い。 背中に付いているものは無視して、肝心の人に向き直る。 取り敢えず息は整ったのか、だいぶマシになった顔色をした青八木さんは、まだ地面に座り込んでは居たが体勢を変え膝を抱えて体育座りでじっと此方を見据えていた。 …どこかシュールな絵面だった。 「パン屋、行くすか?」 衝動のままに生きるとしても、混乱させてしまった事くらいは謝ろう…かと思ったが、後ろの物体のうるささに思考が寸断され、出て来たのはそんな台詞だった。 「……………っ」 一度地面に視線を落として何かを言いたそうに唇を尖らせた青八木さんはすっくと立ち上がると、髪や服の泥を落とし始めた。 「!」 …かと思うと、突然、俺の顔面目掛けてびっと勢い良く飛んで来るものが在った。 それは青八木さんの手で、殴られんのかと思うのも無理は無い事だと思うが、その拳が顔にめり込む事は無い。 「足りなかったら、おまえの奢りだから」 俺は食うからな、と続ける青八木さんは…この場で俺を振ると言う選択肢を忘れているようだった。 「ほら」 「……三人分だよな、わーったよ」 くしゃくしゃになった紙切れを、今度はしっかり受け取った。 2016/12/04(公開) |
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