モドル
About   Gallery   Novel   Diary      



カレー研究会(銅橋と真波)

「おいしい、カレーの、作り方」


反芻するように区切りながら話すのは真波山岳。
キラキラした見た目に柔和な態度と誰にでも良い愛想で、女からは特に持て囃される自転車界気鋭の『王子様』だ。


尤も、三年間間近で見てコイツがただそれだけの薄ペラい存在では無い事も、柔和で愛想が良いのはどうでもよさの裏返しだと言う事も知ってる身からすれば…、今目の前に居るのは元同級生から不躾に声を掛けられても即日部屋にまでやって来るような…何考えてんのかまったくわからない、生身のマナミだった。



「……カレー作るの、バシくん?」
「作り、たい」
「作れば?」

身も蓋も無いが真っ当な事を返される。
それでも、この掴み所の無い頼み事を聞かされて、苛々するどころか焦れる気配すら無いと言うのは凄い事かも知れない。


「じゃなくて、だな…、美味いカレーが作りたい。 出来るだけ」
「うん」
「真波、料理上手かっただろ」


正直言えば、真波とは合わない部分の方が多い。

性格も外見も正反対と言っていいような共通点の無さで、それでも一緒にやらざるを得ない立場や年数の中でそれなりに上手くやっていたとは思うが、やはりどこか異質なものだった。
蛇蝎の如く嫌う程では無くとも鼻につく部分は在るし、それは恐らく真波からしてもそうだろう。

ただ、実力だけは疑う余地の無いものだった。
クライマーとして…もそうだが、今は料理の腕の話だ。


「そうでもないよ?」
「在るんだよ、少なくとも俺の親より上手いだろ」
「バシくん家のごはん食べたこと無いけど」
「上手いんだよ!」

真波は料理が上手い。
寮暮らしでも無いのに気紛れに寮に来ては滞在費代わりにとその腕を振るう事が在った真波の手際を見て、その料理の余り物を食わせてもらった事も在る。


「どうしてカレーなの?」
「基本だろ…、あとお前好きだって言ってたから、得意かと」
「俺が好きなのはキーマカレーだよ」

カレーじゃねえか。


「それで…、俺は美味しいカレーの作り方をバシくんに伝授したらいいの?」
「…宜しくお願いシマス」
「なにそれ!」

人が頭を下げる姿を見てけたけたと笑う真波は憎たらしいが、この時点でもだいぶ借りを作っている。

連絡した時は既読スルーか最悪未読のままで放ったらかされるものだとばかり思っていたが、程無く返信は来たし、真波自身までやって来た。
そもそも本当は呼びつけるつもりは無く携帯越しに話を聞ければそれでよかったのだが、訊きたい事が在ると言っただけで見る見る内にこう言う展開になってしまった。

暇…と言う事は無いだろう。
利用しようとしておいてなんだが、よくわからない奴だ。


「でもさ、女の子相手ならパスタとかの方が良くない?」
「…今、なんで女の話が出て来たんだよ」
「あれ? 違う? じゃあ母の日?」
「何ヵ月前の話だよ」

女でも母親でも無いが、勘繰るでも無い様子で図星を突かれて自分の失策に気付く。
普段会わない人物に急にこんな事を言い出すなんて…料理を食べさせたい相手が居るとか、そう言う話だと思われる方が自然だ。

そして、


「じゃ、やっぱり女の子だ! どんな子?」

明らかに表情が変わった真波は、くだらない話題が好きだった。




「…カレー作りましょう、先生」
「えー、気になるんだけど」

大抵の事には興味無さげにのらりくらりとしている癖に、こんな事に限って本当に興味が在り気に目を輝かせている。


まさか青八木さんがその相手だとバレる事も無いだろう、寧ろ今ここで俺が自らその名前を出したところで信じてもらえるかも微妙なところだ。

だが、真波からしても一応は面識の在る相手だ。
万一と言う事も在り、その存在に興味を持たれるのは居心地が悪い。



「……カレー」
「カレールーの箱見て作れば?」
「にべも無えな!?」

真波は予め用意して置いた材料の中からルーの箱を取り出して、くるりと裏返して差し出して来る。
それでいいならわざわざ真波に声なんて掛けない。
普通のカレーでも美味しく作れるような手法を、料理の上手い奴はきっと知っている。
教えてもらいたいのはそれだ。


「でも、こう言うカレーってそれが正解らしいよ?」
「は?」
「分量も手順も箱に書かれたものでいいし、チョコレート入れるとか蜂蜜入れるとかコーヒー入れるとか… 『おいしくなりそう』 で追加してやる事って、結局は雑味になるんだって」

それはどれも知らなかったが、確かに雑味にはなりそうだった。


「それに、ここに在る作り方って、このルーを開発した…一流企業の開発部が人員も経費も使って研究して仕事で書いてるものだから、きっとそれが一番おいしいんだよ」

趣味とか気分とか在るから雑味も悪い事じゃないだろうけど自己満足の領域だよねぇ、と付け加える真波の言い分は、確かに納得出来るものだった。
何か本の少しの手を加えるだけで料理が急激に美味しくなるような、そんな魔法のような手法は少なくともこのカレーには無いのか。


「あ、使うお肉の値段を上げたら美味しくなるよ、段違い」
「誕生日用だな」
「いつ?」
「…知ってんだろ」

「わかってるくせに〜」

そう言えば、青八木さんの誕生日は誤魔化すまでも無く本当に知らなかった。

「こんにゃくの日なんだよ」 と言う語呂合わせと共に勝手に頭に入って来た真波の誕生日は未だに覚えているのに、だ。




「カレールーを複数用意して混ぜるといいって言うのは在るらしいよ、使われてるスパイスが違うから味に深みが出るとか出ないとか」
「どっちだよ」
「出ると信じれば出るんじゃない?」

しかし、さっきからカレーの知識がぽんぽんと矢継ぎ早に出て来る真波には正直驚かされる。
こいつはやっぱり料理が上手いし、カレーも好きだ。


「雑味と同じで宗教みたいなもんって事か」
「雑味に比べたら信じる者は救われるかな、複数使おっか」
「複数ねェから」
「買って来るよ〜」

ひらりと舞うように差し出された掌の意図するところは……、 『金をくれ』 だった。


「いや、俺が」
「バシくんは野菜とか切ってなよ、俺が残って切ってもいいけど」

仮にも客を走らせるのは、と思ったが、よく考えてみれば客を一人部屋に残すのも何かおかしい。
真波に一人で調理をさせて、俺が何もしない内にカレーが出来て居ても困る。


「…財布、机の上に在るから適当に抜け」
「はーい、はじめてのおつかいだね」

ふわふわと天に向けて跳ねた髪を揺らしながら、小銭を握り締めて真波は部屋から出て行った。
高校時代と何等変わり無く見えるが、改めて考えると……。

割と、いいヤツだったのかも知れない。 真波も。





「ただいまー」
「…多くないか、んだよその葉っぱ」
「冷凍庫空いてる? アイス買っちゃった」
「確認してから買え、金足りてねーだろコレ」

冷凍肉の解凍に時間を取られ大して作業も進まない内に真波は帰って来た。
剥き身にシールだけのカレールーを持って帰って来るものと思っていたが、真波は何故か結構な荷物を持っている。 謎の葉っぱはセロリのものだ。


「ちゃんと自分の財布持ってるよ?」
「払うから」
「いいよ、カレー食べるし」

勝手に冷凍庫の中身を並び替えて空けたスペースに棒アイスを詰め込む真波は本当に何を考えているのかさっぱりわからない。
セロリ? …肉?


「セロリ入れんの?」
「嫌い?」
「でもねえけど、それこそ雑味になんじゃねえか」
「俺はセロリ単体はそんなにだけど、カレーに入れるのは好きなんだ」

よくわからないが、特に反対する理由も無い。
切っていた玉ねぎをボウルに入れて、ジャガイモを洗う。


「ね、バシくん」
「あんだよ」
「バシくんの好きな人って、どんな人?」

思わず振り向いて、後悔する。
真波は好奇を隠しもしないキラキラした瞳をこちらに向けて、一回無視した質問を繰り返していた。

すこぶる、面倒臭い。


「料理食べさせるって事はもう付き合ってんだ?」
「関係無いだろ!?」
「いやぁ、ヒマだからさ〜」

肉のパッケージを冷蔵庫に詰めて、真波は続ける。
軽い態度ながらそこそこ順当で的を得た推理を重ねるところが更に面倒臭い。


「俺はカレー作んだよ」
「折角なんだから会話もしようよ!」
「もったいないだろ、ってか」
「あは、そうそう」

いつの間にか持った人参をくるくると回しながら寄って来た真波はそのまま手と人参を洗って、まな板の前に陣取り人参に包丁を入れ始めた。
その指の先では見る見る間にするすると人参の皮が薄く剥かれる。


「…それさ、どうやってんだよ」
「え?」
「人参、つか、野菜の皮…、上手いこと薄く剥くよな」
「…んー、感覚と経験だよね。 野菜なら基本的には包丁じゃなく野菜の方を動かすとか、人参は大根みたく回すんじゃなくて縦に剥いた方がラク、とかは在るけど」
「まぁ、だよな」

全てに於いて魔法は無い。
飄々と事も無げに難無くで調理をしているように見える真波も、恐らく過去に練習を重ねていたのだろう。


感覚はともかく、経験で在れば見て覚えるのも有効だろ。
暫く出来るだけ真波の手先に集中してみる。

一本の人参はあっと言う間に丸裸にされ、流しに置いた皿の上に転がっていたジャガイモがそのままの流れ作業で剥かれて行く。


「そう言えばさ、人参の皮って皮じゃないって知ってた?」
「知らねえ」

真波がひとつを剥くのを見届けてから、箱の裏に従い鍋を火に掛けて冷蔵庫から取り出した肉を放り込む。
普段なら聞き流したいような哲学的にさえ思える謎発言も、この手際を見てからだと何やら重要そうに思えるから、先入観と言うものは凄い。


「人参の皮って極薄い膜で、販売用のものだと泥を落とす洗浄の段階で取れちゃうんだって」
「…皮だと思ってたのは身だった、って事か」
「ちなみに、栄養は表皮に近い部分に多いから、この皮じゃない皮も本当は剥かない方がいいんだってさ」
「剥いたな」
「剥いちゃった」

皮剥きはピーラーが楽だから買った方がいいよ、と付け足される発言を、木べらで鍋の中の肉を動かしながら記憶するように努める。


「でさ、バシくんの好きな人だけど」

イモの皮を剥き終えてから玉ねぎを鍋の中に放り込みに来た真波から飛び出した、急旋回で戻って来た話題につい指が滑りかける。
木べらが軋む不穏な音にもこのしつこい男は動じなかった。


「…人参の話挟んだら興味失えよ」
「ふふふ」
「ふふじゃねェよ、第一んなもん聞いてもなんも得しねえだろ」
「年上? 年下? 同い年? 乱切りでいい?」
「は?」

最後のはまた人参についての話題だった。
物のついでに人の勉強の機会を消滅させようとするから、人参をまな板の上で回しつつ切る真波の手先に注目する。


「そうだ、玉ねぎ人参にフライパン貸して? フライパン以外は返さないけど」
「何すんだよ」
「やっぱりキーマカレーも作っちゃおう」
「カレーにカレーかよ」
「カレー研究会でしょ? ふたつくらい余裕だよ」

そんな会を主催した覚えは無い。
せめて勉強会だ。

放り込まれて行く野菜をかき混ぜる。
これでは親の手伝いをする子供程度の事しかしていない気がするが、作るカレーが増えれば見て覚える機会も増える。


…あの人は、キーマカレーが好きだろうか。
いや、そもそも青八木さんがカレーを好きかどうかも知らなかった。

何を食わせても同じ調子でうまそうにしてるし、カレーパンもその例に漏れずうまそうに食っていた。
少なくとも食えないような事は無さそうだが――


誕生日にしても好物にしても、訊けば済むだけの他愛無い事を、こんなにも知らない。

これまでの態度はもう改められないから、せめてノートにメモをした。
誕生日と、好物、あとピーラー。




「これは…、作り方とかレシピとか、そう言うの無いわけ」

真波がフライパンでキーマカレーの調理を進めるのを、時々手伝いながら眺める。

さっきより数段楽しそうな真波は、本当にキーマカレーが好きそうだ。
普通のカレーを挽き肉で作ったものは…キーマカレー好きにとってはどうなんだろう。


「元は在るけど、雑でいい部分と覚えてる分量でなんとかなるから。 後でちゃんとしたレシピも送るね?」
「ありがとよ、キーマカレーの伝道師様」
「バシくんの好きな人にも食べさせたげてね〜」

ニコニコとまた話を戻して来た真波を無視する、と、いつの間にか結構な至近距離で顔を覗き込まれていた。
お綺麗な面に嵌め込まれた青く光る眼はまた興味の色を宿している。


「カレー粉量るから交代」
「ん」

嘱目の視線から逃れて内心ほっとせずには居られなかった。
言われるがままに渡された木べらでフライパンの中の挽き肉をかき混ぜる。


「ね、ね、当てたげよっか」
「何を」
「バシくんの好きな人、年上でしょ」

反応すればそうだと言っているようなものだが、反射は止められなかった。
つい振り向いて見てしまった真波は…ニコニコと言うよりニヤニヤして、カレー粉をフライパンに投入してきた。


「一歳上? 二歳? それ以上?」
「…どうだっていいだろ」
「じゃ、それも当てちゃお」

何言ってるんだ、コイツは!?

つい、真波と青八木さんの接点を考える。
…何一つ、思い浮かばなかった。


俺と青八木さんの直接的な関係が始まった競技フォーラムの日、あの時は確かに真波も居た。

だが、真波が興味を向けるのは小野田坂道だ。
同学年で誰とでもよく話す鳴子とは多少話していただろう、泉田さんや新開とは元々話す。
しかし、青八木さんとは…、俺が覚えている限りでは、真波は話しても居ない筈だった。

そうだ、そもそも興味の向かない対象にはとことん興味が無いのが真波だ。
レース中でも無ければ大して近しくない相手にわざわざ失礼な事は言わないだろうが、訊けば人の名前すらも覚えていないのが真波だ。


「えーと、学年はいっこ上で、千葉出身とか」

落ち着け。

こいつは当てずっぽうを言ってるだけだ。
千葉だって、それこそ自分の知り合いの出身だからだろう。


「あー…、あとなんだろ、身長はバシくんで言うと……この辺で」

そう言いながら真波が突いた先は俺の背筋。
肩甲骨の辺りから指先で確かめるように撫で上げて、止まったのは首筋だった。

表面的な感触だけでは無い…背を這い上がるような感覚に強張る身体を隠すように、手元に集中する。
半分は火が通った挽き肉の塊をガツガツと突いて出来るだけ細かく分解する。 出来るだけ、出来るだけ。

真波の指が指し示すそこは、身長として考えるなら女にしてはデカく、男にしては小さい微妙なところで、



「名前は、アオヤギさんかな?」

何かが砕ける音がした。






「……ごめん?」

俺が持つ真っ二つになった木べらを布テープで巻く手付きも、真波は器用だった。


「…お前の所為じゃねえだろ、別に」
「フライパンに破片入ってないかなぁ」
「カレー第一かよ」
「伝道師だからね?」

看護師が手掛けた包帯のように等間隔に巻き上げられた木べらは、割り箸の補強も入って取り敢えずの使用に耐える程度には復活を果たした。


「で、」
「そろそろこっちの鍋、ルー入れよっか」
「……おう」
「ルーを完全に溶かしてからまた火に掛けるんだけど、こっち先に終わらせるから溶かすのお願いね」

訊きたい事は山程在るが、つられてカレーに意識を戻す。 現実逃避も兼ねて。
キーマカレーに居場所を奪われ流し横に追いやられていた鍋に、言われるがままカレールーを投入した。


どこか無責任に流れ作業としてやっていた学校の調理実習とは細かい手順にも違いが在るし、その違いは箱にも書かれていない。

魔法、は、こう言う事の積み重ねで在るのかも知れない。


「あ、あとごはん炊かないと、だよね?」
「…だな」
「どしたのバシくん、元気無い」

それはお前の所為だ。

料理よりも余程に魔法じみた発言をした事で、得体の知れない力すらも感じる存在となったマナミは最早恐ろしい。


「……アオヤギさんの話してもいいよ?」
「いや、別に話したくはねえよ!!」
「あ、認めた〜」

けらけらと軽く笑う真波は一体どこからその名前に辿り着いたのか…、気になる事は気になるが藪蛇だ。
だが、蛇に巻き付かれ半身を飲み込まれたようなこんな状況で藪蛇も何も無いかも知れない。

…大体、普通に受け入れられている事も恐ろしい。
引くとかからかうとか、までは行かなくとも、よそよそしくなるくらいの事はしろよ。 自由か。


「……お前、あの人の名前覚えてたんだな」
「んー、さっきまでしっかり覚えては無かったんだけど」

米を炊飯器にセットしていると、背後から聞こえた発言の矛盾が引っ掛かる。
真波に青八木さんの名前を教えるなんてピンポイントな事をする存在が何処からか湧いて出たとでも言うのか……そう考えた時、ひとつの可能性が頭の中に浮かんだ。



「まさか」
「うん、さっき会ったの」

まじかよ。

顔が赤くなるような、青くなるような……、或いは胃の中にビー玉を六個放り込まれたような、そんな気分だった。


「何、話したんだよ…」
「やだなぁ、別に言い触らしたりしないよ」

何が楽しいのか、真波は人の顔を見ながらへらへらと笑っている。
…いや、楽しいのは俺の顔か。


「部屋出た時に下からこっち見てるロード乗りの人と目が合ったからさー、挨拶したんだ」

なんだそのコミュニケーション能力。
それこそあの人に分けてやれ。


いや、そんな事より、それが青八木さんだったと言うのか?
この近い距離に住む俺ですらその辺で偶々会うなんて事は三年間無かったのに、今日初めてやって来た真波が出会うなんて…どんな偶然なんだ。


「よく見たら見たこと在る人だったから、少し話してー」
「だから、何を」
「ここ、バシくんの部屋なんですよ、とか?」
「はぁ…」
「知ってるって言ってた」

それはまぁ…、知ってるだろう。
マナミと話す青八木さんを想像してみる。
いつもの単調な様子で無感動に対応するのか…、それとも少しは動揺したのか。


「あと、バシくんの好きな子の為にカレー作るんですよ、とか」
「言うなよ!!」
「不可抗力ってやつだよー」

罰ゲームのような展開に目眩を覚える。
好き、とか、呈するならそんな気持ちが在る事も…無くは無い。
ただ、そんな告白めいた言葉で本人に伝えるつもりも無かったし、他人から伝えられるつもりはもっと無かった。


「付き合ってるの?」
「…お前は他に気になる事はねえのかよ」
「あ、邪魔しちゃった? 帰った方がいい?」
「そう言うんじゃ無くて」

まぁ、引かれたいわけでも無い。
真波の自由は今に始まった事でもねえし、それこそ真波の自由だ。


「うん、俺もカレー食べたいしね」

カレーはふたつともほぼ仕上がり後は米が炊き上がるのを待つだけと言う段取りの悪さだったが、冷蔵庫を無断で漁りながら 「ゆでたまごとサラダ〜」 などと間延びした調子で呟く真波を見るに、まだやる事は在りそうだった。
必要そうな事はメモを取りながら指示されるままに作業を進めて行く。


青八木さんが真波の発言をどう捉えたかとか、今後どんな顔をしてカレーを出せばいいのかとかは後で考える事にしよう。

…ふと、へらへらした同輩に何かやり返してやりたくなったが、こいつの恋愛事情なんて知るわけも無かった。
くそ、いつか突っついてやる。





「おいしかったぁ、御馳走様」
「御馳走様」

真波の台詞は、青八木さんが普段同じ場所でよく言っているものと似たような響きだった。

御互いの部活や先輩方の話や後輩の話、そして同輩の話をしながら真波とふたつずつのカレーを平らげると言う謎の休日になったが、あれから青八木さんの話が出て来る事は無かったのは正直助かった。
変に聡いところの在る真波につつかれて要らない事を言いたくは無い。


「うまかった…、つか、本当に手際良いよな、お前」

カレーは本当においしかった。
信心の賜物かセロリの功績か普通のカレーはいつも作るものより美味しく感じたし、キーマカレーはあの手早さで用意されたとは思えない味だった。


「そんな事無いよ〜、バシくんも元々普通に作れるじゃん、もっと破滅的かと思った」
「キーマカレーは作れねえよ、けどもう作れるかもな」
「作って作ってー」

まんまと伝道師様の布教に釣られてしまったが、キーマカレーは寧ろ普通のカレーよりも簡単に作れると言う事が知れたのも収穫か。
因みに、挽き肉で作った普通のカレーはキーマカレー好きにとっては普通のカレーなんだそうだ。


「青八木さん、これから来るの?」
「いや、今日は」

性格の悪そうな笑顔と目が合う。
毎度引っ掛かってしまう自分に腹が立って来た。


「今日は、って、そんな頻繁に来てるんだ? もうそれ付き合ってるよね」
「付き合ってねえよ!」
「でも、今日は来るんじゃない?」

これも、コールドリーディングに見せ掛けたホットリーディングだとでも言うのか。
予言めいた言葉の裏は全く読めない。


「なんで」
「自覚と脈が在れば来るよ、カレーは腐りやすいから」

ニコニコと笑う真波の笑顔は、もう何の裏も無さそうに見えた。

『好きな子』 の自覚、と――



…ウェルシュ菌。
カレーを始めとした煮込み料理での増殖とそれを原因とした食中毒が危険視されている菌の名前が頭に浮かぶ。

何の約束もしていないと言うのに、今まで来いと言わなかった日にあの人がこの部屋に来た事は一度も無いと言うのに。

今日、あの人が突然来るような都合の良い展開が無いと、自覚も脈も無いような気になってしまいそうで、それこそカレーも俺の気分も腐り兼ねない。

自覚も、脈も、大いに在る筈だと、頭の中を整理する。




「じゃ、遠慮するわけじゃないけど俺はそろそろ帰ろっかな?」
「あ、マナミ」
「……何、これ?」

窓を見れば陽はまだ出ているようだったがその光量は弱く、夕方への転換を思わせる薄暗さだ。
都道府県を跨ぎ電車で二時間も掛けて帰る事を考えれば確かに頃合いだった。


「…わ、悪かったな、今日はわざわざ……。 助かった、ありがとう、ございます?」
「ぶふっ…! なんなのそのノリ!?」
「っせーよ!! 笑うな!!! 慣れてねえんだよ…」

一日を殆ど潰させてしまった事にせめて礼を言おうとしたが、上手く行かない上に笑われる始末だ。


「いえいえ、どういたしまして! たいしておやくにもたてませんでー…? で、これは?」
「電車代」

ままごとのような発音で返礼をしながら真波がひらひらと振るのはさっき無理矢理に押し付けた紙幣だ。
適当に調べて繰り上げて、五千円札が一枚。



「え、いいよ」
「いや、呼びつけられて一日拘束されてんだからこんな必要経費だけじゃなくバイト代要求してもいいくらいだよ」
「あはは! バイト代!!」

突き返された紙幣を掌で真波の手ごと押し返す。
と、その掌をすり抜けた紙幣がまた俺の目の前にまで突き付けられた。



「友達の家に遊びに来てお金取るのもヘンじゃない?」


真波はそう言って、目の前に掲げた紙幣を近くの棚の上にそっと載せた。



…………友達。



「じゃ、駅まで送ってよ、アイス食べながら」
「…食べ歩きは叱られんぞ」
「先輩達に? 黙っててね」

穏やかに微笑む真波を見ながら言われた言葉を頭の中で反芻して、真波がどうして人の色恋沙汰なんかに興味を持ったのか、少しだけ理解出来た気がした。



そうか、友達…か。

…そうか。





◇◇◇





三階。
エレベーターなんて付いていない四階建てのアパート、その三階。
オートロックシステムも無い事を幸いに、住人でも無いのに何の遠慮も無く踏み込む。

毎度、ロード乗りのくせにわざわざ三階なんかに部屋を借りる奴の思考回路は解らないと思えるが、あのフィジカルには階段の一階分や二階分をいちいち気にする必要は無いと言う事なのか。


とかく、俺の借りた部屋は一階に在るのに階段を登る機会が増えたのは、ここに住む男に呼ばれるから。
呼ばれる事を、俺が望むから。


もう見慣れてしまった扉の前に立ち、暫し…立ち尽くす。
普段とは違い、今日は呼ばれては居ない。
留守の可能性も大いに在る。



昼間、試験勉強の息抜きにふらふらしてつい見上げたこの扉から出てきた人物…真波山岳の言葉を思い出す。

バシくんの、好きな子の為に、



年下の口から出てきた 『好きな子』 と言う言様から咄嗟には考えが結び付かなかったが、それは恐らく…、この俺の事だった。
何の約束も無く既成事実だけを積み重ねる内に変わって来た気持ちは、自分のものだって銅橋のものだって解りやすい。



ただ、咄嗟に考えが結び付かなかった、その一瞬で反射的に印象として残った言葉は…とろりとした陰になって未だ気分の端にこびりついていた。


『バシくんの好きな子』

銅橋の元同級生できっと友達で在ろう真波が言うそれは、台詞だけを聞けば本当に極々自然で、ありふれている。
確認したわけじゃないが、妄想だけの存在では無く実在した存在だ。 過去にはきっと。
そして、未来は、


感情の勢いに任せて手を掛けたドアノブは、大した手応えも無く普段通りに……開いた。




部屋に居たらしい人物の、どこか慌てたように此方へ向かう気配と物音が聴こえる。
口を開いてみたが、どう声を掛ければいいのか思い当たらなくて…結局何も言えなかった。



「青八木、さん?」

ゆっくりと近付いて来る見慣れた体躯が作り出す陰はいつもより濃い気がして座りの悪い気分になる。
約束も無しに押し掛けた引け目だろうか。


「…………カレー」

ざわざわした纏まらない気分と此処に居る理由、それらを整理しようとしていたら頬を突っつかれて、頭の中に凝っていたワードが口から漫然と出てしまった。

とにかく手を洗う事にして洗面所に向かってから、そもそも普段は中を伺うなんて事は無くここに踏み込んでいるし、銅橋だってわざわざ来訪者を確認しには来ないのだから部屋からの逆光で陰になったその姿を見る機会は無くて当然だったと思い至った。



「…カレーが、在るって」
「あ、あぁ……」
「出せ」

手を洗ってから、歯も磨かせてもらう。
割と早い段階から置かれている俺用の歯ブラシは、いつかのホテルのアメニティを銅橋が持ち帰ったものだった。
女みたいな事をすると思ったものだが、それを即活用している身なので特に文句は無い。
使い捨てを前提とした造りの歯ブラシだが、意外と丈夫で毎日のように使っていても特別目立つ程には傷んでいない。
また後でも磨くのだから変に力を入れずに終わらせる。

口を濯いで顔を上げると、自分の部屋だと言うのに斜に構え居心地悪そうに頭を掻く銅橋と鏡越しに目が合う。
だが、突然押し掛けた事の迷惑や唐突で不躾な態度で機嫌を損ねたと言う事は無さそうだった。



「俺が、全部食べる」
「……結構な量、在るすけど?」

振り返り向き合った銅橋の拳が腹に当たる。
その腕を押して部屋の奥へと促した。



「…きっと、お前には言っていなかったな」

一歩だけ動いてそこで止まってしまった銅橋が様子を伺うように顔を覗き込んで来て、至近距離で目を合わせる事になる。




「早食いは得意なんだ」
「おぉ……」

その地位に自分が今居るのなら、そのまま居座って喰らい尽くしてやればいい。

何事も、やった者勝ちだ。



「…ん、ええと、……カレーの早食いを、しに来たんすか?」
「そうだ」

その為のカレーだった筈だ。
なんとなく、みたいな手付きで腰を引き寄せられたから、なんとなく、みたいにこちらも腰に手を回して、ついでに尻を揉んでやった。
自分の尻がよくこいつに揉まれてるから、最近はやり返しても居る。
触り甲斐の在るこいつの身体に触るのは元々好きだし、ぐにぐにした感触は割と楽しい。



「時間、計ってもいいぞ」
「…じゃ、動画撮るすわ」

唇の端に吸い付かれて、体内の温度が跳ね上がるのを膚で感じる。
気分に残っていた筈の陰は、最初から錯覚だったみたいに……どうでもよくなってしまった。


後は、カレーを食べるだけだった。




カレー研究会(銅橋と真波)



  
2016/12/03(公開)
















>>Cosmic★Prison
:: P column M-i-O ::